子供の頃に、かかりつけの医者がございました。\r
その医院は内科と小児科だけで、医師は父と息子。\r
父親の方は大先生(おおせんせい)と呼ばれておいででした。\r
明治の気骨と申しましょうか。\r
そのお人柄は皆から尊敬されておられました。\r
大先生には信念がおありでした。\r
子供の発熱は、三十八度までは注射をしない\r
麻疹などに感染している場合は外へ出させない\r
という二つは、今でも記憶にございます。\r
ある日麻疹に罹って電話を致しましたところ\r
「絶対に外へ出すな、風に当てるな、行くから!!」と仰って
往診して下さいました。\r
その信念には理由がございました。\r
我が子を麻疹で喪っておられたのでございます。\r
医師でありながら救えなかった悔しさを胸に抱き\r
午後は患者のところへ回る日々でございました。\r
そして年月が過ぎ、大先生は旅立たれました。\r
大先生には幾人かのご子息がおありだったようで
いずれも医師であると聞き及んでおります。\r
それまで一緒に携わってこられた先生は
ひとり郊外に移り、小児科医院を開設されましたが\r
そのいきさつは知る由もないことでございます。\r
わたくしも大人になり、いつか小児科とは
縁遠くなって行ったのでございました。
